刻羽空也が一日一題を目標にゆるーい感じでお題を消化してました。(過去形)

投げるところに困った物を取り敢えずでぶん投げる。


レリマル 合鍵
 勤続10年の節目に、マンションを買った。1LDKとしても使える2DK、隣近所は自分と同じ単身者か子供のいない若夫婦、リタイア後の老夫婦など。
 自分の10年後生存率が1割を切っていると知った上で35年ローンを組んで買った大きな買い物に、同僚たちから「最初から踏み倒す気の悪党」とヤジを飛ばされ、「もっと褒めてくれ」と一通り一緒に笑ったが、死亡すれば一括返済になる保険を付けてその分の付加料金も払っているのだから問題はない。告知事項に奈落堕ちも殉職もないせいで長生きできそうな健康体の扱いで申請できてしまったのは、確かに殆ど詐欺なのだが。どうせ一部例外を除いて偽装の戸籍で生きている愉快な仲間たちだ、あらゆる書類は署名の段階から偽造になる。
 これは一種の願掛けだ。明日には死んでいるかもしれない自分が、どこまで生きてこのローンを払い続けられるかの賭け。完済まで生きてやる、と言えるだけの気概はない。それがどれほど困難かは、この10年で理解した。それでも、この10年を生き延びた。諦めることが多すぎて、捨てることが当たり前になりすぎて、死を前にしてもなんの未練も思い浮かべられない可能性が浮上して、それなら、と気の長いローンを組んだ。保険も掛けてあるのだからとんでもなく重い後悔にはならないが、たった何年分しか払えなかったなと思い浮かべて悔しくはなれる程度の、適度な未練だ。
 名前を捨てて、家族との縁を切った。2本ある合鍵の1本は保証人として名義を貸してくれた信頼できる上司に託して、余った1本は新居祝いと称してサシ宅飲みをした唯一の同期に、酔った勢いの悪ふざけでケラケラと笑いながら握らせた。まともな人生を送れるはずもない、両親に我が家をお披露目する機会は一生来ないし、合鍵を渡せるようないい相手ができるはずもない寂しい男の余り物だ、引き出しの奥に死蔵しておくのも可哀相だろう、お前が持っていたほうがまだマシだのなんだのと、そんなことを言った気がする。「いらねぇ」とゲラゲラ笑いながらポケットに仕舞われた合鍵を、実際に使うかどうかは二人とも考えていなかった。それぐらい、他愛も無い冗談だった。
 名前を捨てず、家族との縁を切らなかった例外が、その同期だった。ともに肩を並べる仲間たちは皆、心も体も変わり果てる呪いを患っている。化物のような姿になって別人のように笑う姿を愛していた者に見せることも見せられることも、常人には耐えられない。傷付けず傷付かないために二度と会わないことを、自らの意思で選択する。耐えられずに壊れて死んでいった仲間たちを見送った先人から与えられた、生きるための知恵。それを教えられてなお「俺がいなくなったらお袋が一人になるから」と、いつか母に化物と拒絶される覚悟するほうを選んだ男。
 ボロアパートに住みながら仕送りを続け、盆と正月以外の実家帰りもマメにこなす彼が、ある日使う予定のなかった合鍵を手に、扉の前に立ち尽くしていた。
「帰ってくるの明日じゃなかったっけ?っていうか人の家の前で何やってんの、用があるなら電話くれればもうちょい早く切り上げてきたのに」
「ああ、うん…いや、ちょっと」
 場所を詰めろと退かしながら思い浮かぶままつらつらと口にした疑問があまりにも考えなしだったと、すぐに理解した。なんの回答にもなっていない歯切れが悪ければ覇気もない返事と、視線を床に投げながら拳の中に合鍵を握り直した様。一晩田舎に泊まってから帰ってくる筈だった男が、予定を変更して日帰りで飛行機に飛び乗った事実。
 いつかと覚悟していたその日が今日だったのかと、口に出して問うことはできなかった。とっくに体温で生温くなった合鍵を握ったまま動けなかった友に掛けるに相応しい言葉など、何処を探せば見付かるのだろう。横たわる沈黙までも彼を苛むような気がして、黙っていることにも耐えられないのに。
「…ピザでも頼む?」
「え」
「明日休みだし、今日は帰ったら飲んでやろーって思っててさ。酒はこの前買っといたのがあるから」
「なんか手土産買ってくりゃよかったな」
 うっかりしていたと苦笑の形を作ってみせる友を部屋に上げ何かないかとキッチンを探し回っても、把握している以上の物など見付からない。ピザのサイズを大きくしてサイドメニューを山ほど付けても、その場しのぎの薄っぺらさに変わりはない。何かを言おうと逡巡してはぎこちない笑みで誤魔化すばかりの、「なんでもない」の定型句を告げるところにすら辿り着けないでいる友を都合良く励ませる魔法の言葉も、道具も、何処にもなかった。
 泳いだ視線が怖々と此方に向いて、また離れる。唇が開き掛けても「あのさ」の一言すら零れ落ちてこない。そんな空気の中に彼を置いておくのが忍びなくてくだらないことを言っては、もう少し器用でありたかった後悔と恥を酒で飲み込む。賽の河原の如く空き缶を積み上げるばかりの無為の時間を過ごし、時計の針が両方とも頂点を巡った頃、酔いが回りすぎて口が滑った。
「言わなくていいよ。言葉出ないぐらいしんどいんだろ。何があったかも、助けてくれも、言わなくていいよ。言いたくなったときの前置きもいらん」
 気の利いた言葉で救い上げられる男か、何も触れずに黙って寄り添える男になりたかったが、どちらにもなりきれなかった。机に突っ伏してヒラヒラと手を揺らしながら呂律の怪しい声で語るのが格好良いわけがないが、親友に見せるに相応しい、等身大の飾らない姿ではあったのかもしれない。
「お袋が、俺のこと忘れてた」
 ぐしゃりと顔を歪めた親友が吐き捨てるように絞り出した言葉に、顔を上げる。「全然元気だしなんも変わってないんだけど、本人が最近物忘れ多くて不安だって言うから、ホーム探した」と言っていたのを知っている。出不精で洒落っ気もないせいで結果的に交際費も服飾費も抑えられているだけだった彼が、ひっそりと意図的な倹約家に舵を切ったのを知っている。
 先人は、後輩である自分達に自らの意思で決別を選ぶことを勧めた。自分から捨ててしまえば、もう捨てられることはないから。その選択に想いがあれば生きる支えにできることを実感として知っている、当人とて抗えない不可抗力に意思を見出す余地はない。きっと「お前など我が子ではない」と否定されてしまうほうが楽だった、我が子であった頃は愛されていたと思えるから。きっと憎まれたほうがマシだった、日の当たらないところでひっそりと碌でもない最期を迎えるだろう自分達に、生きた証が残るなら。
「『初めまして、何方か存じ上げないけど、あなた私の娘に耳の形がそっくりね』って、聞いたことない姉さんの自慢話を、楽しそうにずっと喋ってて」
 死んでから初めて名前を知った姉の遺品を抱いて田舎に帰る彼が、母を一人遺したくないとぎこちない笑みを一生懸命に作って話したときの横顔を覚えている。「貴方の為にと生きることを選んだ人にいつか石を投げられても、自分も相手も選択も恨まずにいられるか」と問われたときに彼が膝の上で握りしめていた拳の、指先の白さを覚えている。
「俺、いなくなっちゃった」
 あの日の彼の覚悟は、目の前の息子を消し去って、もういない娘と生きる母の笑顔を受け止めるためのものではない。歯を食いしばって茨の道にしがみついて来たのは、こんな残酷な平穏に足元を掬われるためではない。そんな筈がない、そうであっていい筈がない。
 彼にようにはなれなかった。名前を捨てずに生きる覚悟が、もう戻れないことを割り切らないままで別の物になっていく自分と向き合う強さが、持てなかった。利口で無難な当たり障りない選択をするしかなかった弱虫には、愚直な愛と勇気を妬めるだけの自惚れもなかった。近くて遠い隣の友に、ただただ報われて欲しかった。
「なんでお前が泣くの」
 声の抑揚も表情もなくしていた友が、吹き出して小さく笑う。何故かと言われれば、悔しかったからだ。悔しくて、やるせなくて、神や運命を恨むのはこんな時なのだと知ったからだ。此奴を幸せにしてやらないなんてどれ程見る目がないのかと、殴り込んで抗議してやりたかった。
「僕が忘れないから。絶対、お前を忘れないから」
 泣きじゃくりながら抱きかかえた腕の中で「なんだそれ」と呆れたように苦笑した彼が、出会ったときから母親のことを「お袋」と呼んでいた彼が。その晩、リビングの真ん中でブランケットに包まって縮こまりながら、涙声で「母さん」と呟いたのがどうしようもなく痛ましくて。代わりになどなれやしない家族という存在に並び立てるだけの何かに、なってやりたいと思った。



 あれから干支が一周回り、役職と連動して給与が上がっても頑なに繰り上げ返済はしないままのローンの1/3を払い終えた。もしかしたら1/2ぐらいまでは辿り着けるかもしれない可能性が見えてきた今日、当初は使われる予定もなければ扉の前ですらアクセサリーだったあの合鍵は、すっかり本来の用途として仕事をしすぎている。
「ほふぁえりー」
「…お前、絶対自分の家より寛いでるだろ」
「んー」
 残業を終えてふらふらの足で帰ってきた家主を振り返りもせず、風呂上がりのアイスを咥えたまま人の家のリビングでテレビゲームに勤しむ同期の姿に軽く眩暈がする。気心知れた無防備でいられる相手でいてやりたいとは望んだが、なにも此処までやれとは言っていない。
「あっ、何それ僕の知らないフィールド行ってる!?」
「んー、なんかねー、今日電源入れたらアップデートしてまーすってなったから、増えたんじゃない?」
「えーやだー忘れてたー、やだー先に遊ばれたー僕もやるー」
「だめー、晩御飯温めてあげるからお風呂入って来ちゃいなさい」
「家主の仕事中に無断で上がり込んで一番風呂とフィールド一番乗りと冷蔵庫の期間限定アイスを掻っ攫ってくタイプのおかん…」
「嫁姑バトル激しそう」
「母さん合鍵返して」
「いやでーす」
 そういえば、「家に一人でいたくないときは勝手に上がっていい」から「居心地がいいからって勝手に上がり込むな」に掛ける言葉が変わったのはいつからだったか。遠慮があったのは精々最初の数ヶ月程度だったかもしれない親友の太々しさに遠い目をしつつ、湯船に浸かり天井を見上げる。昨日までより一回り風呂場が綺麗になっている気がするのは素直に有り難いし、風呂上がりに机の上に並べられていた厚揚げの焼きうどんと蕪の味噌汁と小松菜のお浸しは、心と体に染みると言って過言ではなかった。
「迅」
「んー?」
「許す」
「えー?」
 許されないようなことはしていないのに、と小首を傾げながらゲームの続きを遊んでいた男が、此方の「ご馳走様」を聞いて電源を切って席を立つ。冷蔵庫を開けて何事かがさがさとやっているのも、戸棚を開けて何やら紙袋を物色しているのも、今なら夕食に免じて不問に処す所存だ。
「なぁに、買い出しでも行くの?僕の分のアイス?」
「いやまだあるでしょ。帰りまーす」
「えっ」
「えってなに」
「…もう遅いよ?」
「遅いから帰るんじゃない。キッチン借りたかっただけだし、一応お前の顔見てから帰るかーって暇潰してただけだし」
 すっかり我が物顔で寛いでいるのが当たり前だと思っていたが錯覚だった、と怪訝そうな顔をされて気が付くものの、そんな気がしてしまっていた事実への気恥ずかしさや何やらで状況判断の修正を誤り、「泊まっていくかと思っていた」に「終電なので帰ります」を返される。何故男同士の会話が男女の駆け引きに敗北したかのような遣り取りになっているのか解せないが、そもそも自宅のボロアパートの一口コンロが使いにくいからと作り置きを量産するためだけに人の家に上がり込むこの男が解せない。お裾分け、と幾らか冷蔵庫の中に置いて行ってくれるのが対価といえば対価だが、遠慮無く使われる調理器具と調味料に見合っているかというと幾らか疑問の余地も残るのだが。
「…一緒にゲームやろーよぉ…」
「えー、しょーがないなぁー」
 一番解せないのは、紙袋に詰めたタッパを袋ごと冷蔵庫に戻すこの男の孤独に寄り添ってやりたいと思っていたはずが、いつの間にか「寂しん坊に仕方なく付き合ってやる俺」の顔が向こうの板に付いていることだ。軽口でなく「合鍵を返せ」と要求したら「いいけど、いいの?」と人の目を見ながら余裕の笑みを浮かべそうな質の悪い信頼関係を築いてしまったことを若干後悔しているが、何処でどう間違えたのかは分からない。
  • 刻羽空也
  • 2022/08/21 (Sun) 14:45:57

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