刻羽空也が一日一題を目標にゆるーい感じでお題を消化してました。(過去形)

投げるところに困った物を取り敢えずでぶん投げる。


佐狐兄弟 映画
 自分では決して選ばないものに触れて、見識を深めてもいいかもしれないと思えるだけの余裕があったある日。自分にとって必要なものを学ぶだけでもやれることは尽きないが、無駄のない美しさを追い求めるばかりでなく、敢えて無駄を取り入れる遊びからしか生まれない何かがあることも承知していると、そう示すことでしか演出できない風格というものもあるだろう。これもまた研鑽であることには違いないと、何気なく尋ねた休日の過ごし方が「映画を見に行く」だった義弟に同行することにした。
 画面も音もアクションも、何もかもが喧しく暑苦しいアニメ映画。そういえば幼い頃に男児向けの特撮番組を見る習慣がなかったのは、まあ、玩具を買って貰うような金銭的な余裕がなかったから親も積極的には見せたがらなかったし、子供側からしても気を遣ったり我慢したりするぐらいなら最初から見なければいいという、そういう事情だったのだろう。
「お前、こんなのが好きなのか?」
「こんなのって言うなよぉ!」
 スタッフロールが終わって、灯りがついて。客の殆どが退席し終えて、そろそろ自分たちも片付けの邪魔をしないために席を立つかという、そういうタイミングでの第一声。ひどい、と勢い良く此方を振り向いた半べそ声の主を覗き込めば、想像通りに興奮で涙ぐんだ目をしていた。
 劇場である以上、当然発声も身振り手振りも控えているが、隣の席で多少なりとも様子を気に掛けていれば分かる、その場その場でのリアクションというものはある。ああこのシーンは此奴にとっては歓喜に拳を握る場面なのか、感動に打ち震えて泣くのを堪える場面なのかと、冷ややかに認識する要所要所の積み重ねで、最後にどんな顔で上映後のスクリーンを見詰めたままでいるのかも大凡分かっていた。
 それだけ好みに合致していたのなら冷やかせば憤慨されるだろうと承知の上でなお言葉を掛けたのは、「こんなの」が紛れもなく本心であると同時に、隣の鑑賞者の涙を見て「これで?」と奇特なものを見る目になるシーンが作中にあったからだ。彼らは人の好んでいるものを表立っては否定しない、それこそ「優しい世界」の住人なのだろうが、それでも作中のシーンに準えているというだけで角は丸くなる。実際、文句を言った後に気が付いたようで、義弟も可笑しそうに笑った。
「でもやっぱり『こんなの』は無くない?分かるでしょ熱量は!凄いのは!趣味じゃなくても!」
「大の大人が大の大人に見せるために作ったんだろうものを、『子供騙し』と言うつもりはないが。あれを格好いいと思う感性は僕にはない」
「ですよねぇ…」
 場所を移しながらの会話の続きに、義弟ががっくりと肩を落とす。生憎と作中で「人間にはフィクションを信じる力がある」と言われたところで、自分にその適性はないし、それが人間の美徳だとも思わない。語り継がれた神話でも、脚色された歴史でも、誰かが夢想した異世界でも、事実ではないと理解した時点でどれも等しく「その程度の代物」に過ぎなくなる。噂話や、それに伴って作り上げられた現実と乖離したイメージがどれだけの影響力を持つかを実感として知っている以上、事実だけが絶対だと言うつもりはないし、空想に人間を捉える力があることもまた統計的事実であろうとは思う。ただ単に、義弟のような作りものと分かりきっている話に感情移入して喜怒哀楽の振れ幅激しく一喜一憂する人間の感覚は理解できないし、羨ましいとも思わない、それだけだ。
「お前がああいうのを特別好んでる印象もなかったけど」
「あー…あの年頃ってさ、戦隊ものとかを『卒業』して深夜寄りのアニメに移るとか、そういう風潮があるじゃない?僕も例に漏れずそうだったなーって。幼稚園の頃とかは人並みにハマってたよ」
 となれば、幼少期の写真を探せばその手の絵柄の服を着ていたり、ヒーローだの怪獣だのの人形を手に遊んでいたりする物もあるのだろう。わざわざ探して確認するつもりは毛頭無いが。
「…じゃあなんで今そうなってるんだ?」
「郭和さん、僕の会社の名前覚えてます?」
 そこまでの思い入れはないんじゃないのか、と差し向けた疑問への質問返しの解を探して、ああ、と腑に落ちる。映像制作会社のスタント支部、更に言えば、従業員の奇抜な外見特性のために嵌り役は怪人役。つまるところ、業務上の参考資料として眺める機会があったのだろう。とても向いているようには見えないが、客先との打ち合わせに出向く営業職でもあるというから、流行り廃りが分かる程度には過去作から最新作まで幅広く抑えておく必要もあったのかもしれない。
「こういうのってね、子供の頃になんとなく好きだったって下地があるところに大人になってから良さを理解してハマるとね、拗らせるんだよ…」
「感覚で捉えていたものに理論が加われば盤石だろうとは分かるけど、残念ながら僕にはその下地もないよ」
「…かつて以上の童心に帰って無邪気にはしゃぐヒロ、想像つかないからちょっと見てみたい気はする」
「絶対に嫌だ」
「ですよねぇ…」
 幼子でなければ許されない、例えるなら風呂上がりに裸のまま走り回るような恥を晒せと言われているのに等しい。知性のある文化的な大人のすることではない、とは、目の前の男を貶しすぎるという意味で過言かもしれないが、少なくとも「こんなの」ではしゃぐ義弟のことは許せたとしても、自分であれば許せないし許したくもない。
「あのぅ、格好良かったところを語っても全然響かないと思うので、『此処の本歌取りが実に巧み』って観点から最高だったところをお話ししても良いですか」
「常識的な尺であれば、どうぞ?」
「よっしゃぁ!じゃあまずね…」
 相手を飽きさせない長さ、相手の感性に合わせたアプローチでトークを行うという技術は確かに営業職のそれで、どうやら思っていたのよりかはまともに仕事になっているようだと多少は認識を上方修正しつつ。それでもやはり、「どうしてこう内気なオタクくんというのは自分の好きな分野の話になった途端に饒舌になるのか」が最大の感想になる語りに耳を貸してやる。「何が下敷きにあり、どういう文脈を持ち、今回このような演出が行われ、つまりこういった意味合いだと解釈できる」の四点で構成されたトークがひとつやふたつではなく、湯水の如く無限に沸き続ける様に流石に感心を覚えた頃、そろそろ語りすぎだろうと切り上げた義弟に「如何でしたか」の問いを差し向けられた。
「存外雅なことをやってるんだね」
「でしょう!?こういう凄さは分かってくれると思ってた!ありがとう!それでさ、やっぱり分かる人には分かるっていうのは書き手と読み手のコミュニケーションとして成立してるし、同じ話で盛り上がれるのってやっぱり嬉しいし、最っ高!ってなるんだけど、同席してる人達がずっと自分には分からない話してたら面白くないじゃない?でもそこで『なんか分かんないけど格好いい!』って思わせられるだけの熱量があるのが作品としての完成度の高さだと思うんだけど、その『ノリとテンションだけで楽しめる』ポイントが…ヒロには全く刺さらないんだろうなって…」
「うん」
「でもほら…読み手への信頼があるから成り立つ投げかけは…好きでしょ…?」
「懇切丁寧に一から十まで語らないと理解しない読者、と見くびられるのが嫌い、に言い換えてもいいけど」
「何処まで拾いきれるかを試すような投げ方されると燃えるタイプだよね?」
「これは食らい付きたいジャンルではないけど」
「ヒロの守備範囲に投げられた球だったら『良い腕してるな』って一目置いて貰えるだけの物はあったと思うんですよ」
「それだけの技量があるのに趣味がこれじゃあ、って扱いをするのは野暮なんだろうね」
「全っ然畑違いの人に認められたからこその嬉しさって、あるよね…って噛み締めてる…一緒に見てくれてありがと…」
「どう致しまして」
 最終的に「全く好みではなかったし面白いとも思わなかったが、『凄い』には同意する」と言って貰えるだけで言葉を尽くした甲斐があったと、本気で心の底から噛み締めている様子の義弟を眺める。哀れなものを見下ろしている目をしている自覚があるが、物の哀れとはささやかで粗末なものの中に情感を抱くようななにかを見出していくことでもある。こうして目の前で顔を覆っている様を、その愚かしさをいつまで観察しているかを自分自身で選べるこの状況自体に、思うところがないと言えば嘘になる。
「お前の感情の機微には九割五分共感できないけど、これがハッピーエンドだってことは僕にも分かるよ」
 だって、きちんとお別れを言えて、いつか会える次もあるのだろう、と。「よかったね」だけは、情動の大きさこそ違えど、同じ方向を向いて言えると、そう投げかけた言葉は「一緒に見てくれてありがとう」への答えでもあった。
 全てを全て言葉にして伝えられる野暮を厭う嫌いがある身としては、義弟の返答がはにかんだ笑顔だけだったのは、悪くなかった。
  • 刻羽空也
  • 2023/06/03 (Sat) 23:30:26

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